遠い声 

小説

本書は菅野須賀子が死刑執行を前にして自らの人生を回想するかたちの伝記小説。1968年『思想の科学』で連載され、1970年に単行本化された。当時としては、菅野須賀子は性に奔放な女性と見られ、毒婦とも呼ばれた。夫であった荒畑寒村が下獄しているとき、幸徳秋水のもとに走り、同志たちから総スカンを食らう。出獄した寒村は、幸徳秋水と菅野須賀子をピストルで殺そうした。

秋水と須賀子は孤立していく。この頃、ロシアで爆弾を使って皇帝を暗殺しようとする若者達がいること知った須賀子は、天皇爆殺を考える。愛知で機械工として働いていた宮下太吉が平民社を訪れ、爆弾を作れることを示唆した。宮下太吉は信州の製材所に移り、爆弾を作製し実験を行った。宮下が爆弾を預けていた知人から、天皇爆殺計画が発覚し「大逆事件」となる。理論派の幸徳秋水は、天皇を爆殺という考えに否定的で計画に参加していなかった。一方の須賀子は、誰が天皇に爆弾を投げるかをクジ引きで決めるといった程度の計画で、とても本当に天皇を爆殺できるとは思えないような稚拙な行動だった。

須賀子の幸徳秋水への思いが計画を進めたように本書では読めるが実際はどうなのかはよくわからない。結局、この計画が発覚することによって、社会主義運動は壊滅的打撃を受け「冬の時代」に入る。この小説で描かれているのは菅野須賀子の一つの肖像で、別の描き方もあったように思われる。

 物干のような断頭台の上に立つ。背をのばし、首をしっかりとあげる。震えていないことが自分を安心させる。ここを歩いていった十一人の相被告の顔がいっせいに浮ぶ。目を閉じる。背後から布が閉じた目の上を結ぶ。
 「もっときつくしばって下さい」
 布に力がこめられる。
 秋水が目の前に立つ。私にだけしか見せない笑顔でうなずく。手をのばし恋のはじめのような優しさをこめて私の手をとってくれる。果物のくさる時のような、あの甘い秋水の体臭がはっきりとあたりを包む。
 私の手に秋水の手の温かさをなまなましく感じる。いつでも熱っぽい掌だった。
 「すぐすむよ」
 秋水が私にささやく。首に冷たいものがまきつく。細い蛇のような感触。躯が宙に飛ぶ。虹が廻る。無数の虹が交錯して渦を巻く。秋水と飛ぶ。ふたり抱きあって。強く。更に高く虹を負って飛ぶ。

著者 : 瀬戸内寂聴
出版社 : 岩波書店
発売日 : 2020/7/15
文庫 : 376頁(岩波現代文庫)
定価 : 本体1,320円+税

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